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今後5年間のお店の方針を決めよっかな〜と考えておりまして、様々な妄想を膨らませておりました。今自分が持っている感覚的なものに名前をつけると、一番しっくりきたのが”局所的”でした。民族的といってもいいし、地域性といってもいいし、とにかく区切りがある感じ。雑文になるかと思いますがせっかくなので書いてみようと思います。あとで自分も読み返せるし。

ここ近年の社会の変化は著しく、特に情報ということに関してはとにかく進歩が早かったと感じています。SNSの台頭を含め。インフルエンサーと呼ばれる新しい職業も誕生していますし、有名・無名問わず発言に関して常に炎上のリスクがあります。全く新しいカルチャーだったので、文化の醸成も急激に進んでいるように感じます。昨日はカッコいいことだったのに、今日になったらダサいことになってる、的なことがあります。気付かぬうちに黒歴史を作っているかもしれない。昔は黒歴史が黒歴史化するのにもっと時間がかかったように思います。こうなると感度のいい人たちから順番にSNSでの投稿を控えたり、辞めたりしていく。SNSに投稿できないような体験や出会いにこそ価値があり、SNSに投稿できる程度のことはみんなに見てもらっても構わない程度のものになっていっているような。綺麗に整備された情報しか出回らず、それは最初のSNSの面白さとはかけ離れたものになっています。SNSの当初の面白さとは、ある種の生々しさやリアルさが感じられる部分が大きかったので。HIPHOPやラップが最近盛り上がっているのも生々しさやリアルさがあるからなのかな、と。アイドルにしても完成された物をMVとして提供するのではなくメンバー選びからドキュメンタリー的に撮っていった方が今の時代をよく反映しているように思います。表側ではなく裏側を知りたいと思うのは人間の本質的な欲求と近いようにも思います。TVよりYoutubeが面白いのもリアルさを求める人と作品を求める人の差なのでしょうか。この時代において最も嫌われるのは、リアルな風に見せておいて実はリアルじゃないこと。本心と違うことをやっていること。お店でいえば、僕らが全然好きじゃないのに好きなふりしてオススメだよ〜って言われたブランドみたいなのは全然好きじゃないことがバレた瞬間に裏切られた気分になるでしょう。そしてその罪は昔よりもっともっと重いものになっています。当たり前ですが僕らが取り扱うブランドは絶対に僕らが着たいと思うものでなければならないし、またこれからの時代ではさらにそれが求められることになるでしょう。大手は分からんけど、少なくとも個人店では。売り上げや利益が目にわかる数字として分かりやすいですし、お店を運営するというのは綺麗事だけ言っててもしょうがないという意見もあるでしょうが、それは大手の論理であって個人店にはあまり関係ないし、大手ですらこういった洋服屋の根本的なところに立ち返るのではないでしょうか。

話を少し遡りますが、情報の進歩、SNSの台頭においてもう一つ気になることがあります。それは民主化と法律についてです。当たり前ですが僕らはそれぞれ違う考えを持ち各々生活しています。事実は一つでも解釈は人の数だけ存在します。僕はアーセナルというサッカーチームを応援しています。僕はアーセナルが負けた時には割としっかり落ち込みますが、アーセナルに勝ったチームを応援している人は1日がとてもハッピーでしょう。事実が一つで解釈が人の数だけ存在することと、SNSの台頭を組み合わせて考えてみましょう。議論を呼び起こす話題というのは解釈の余地が沢山あり、視点の多い話題です。特にその話題が権利に関わるものであったりした場合、議論は混沌とします。そうなった時に最も客観的な視点をもたらしてくれるのが法律であり司法の存在です。大変な話題になればなるほど人は議論を法律や司法に委ねます。要”は白黒ハッキリつけようや”とすることですね。情報の進歩によって可視化されただけかもしれませんが、この手の話題が多いし、そこに参加する人も非常に多いように感じます。ハラスメントの問題も多いですし。業界の慣習的に行われていたことが社会と照らし合わせた場合に食い違うことは皆さんが属している社会の中にも少なからずあるのではないでしょうか?生きてきた背景や物事の捉え方が違う人々に対して客観的な視点を与えてくれるのは数字です。数字は絶対的な事実であるとともに、他者に対して最も分かりやすく客観的で根拠になるようなものです。例えばフォロワーが何人いるだとか、納期は1週間後になるだとか、1日1錠飲むだけで痩せられる薬だとか。フォロワーの数は注目度の可視化だし、納期は1週間を超えたらおそらくクレームになるだろうし、薬は痩せられなかったら詐欺だと言われるでしょう。数字が絶対的な事実であり、客観的な根拠になりうるものだと認識されるようになってから、数字は市民権を得て今や絶対的な力を持っているように感じます。この論理は洋服にも当てはまっていて、デニムのオンスや糸の番手、着丈や身幅が以前より重要視されているように感じます。当たり前ですがデニムのオンスが12ozだからいい訳ではないし、Super120’sのウールを使っているからいい訳ではないはずで、デザイナーがその数字を選んだ理由の方を重要視したいですね。近年の一大ブームになったノームコアファッションは特に素材に対する探求が積極的に行われたため、数字と相性が非常にいい流行でありました。ファッションが好きな人にもそうではない人にも上質なことは説明できるので。デザイン的な良し悪しというのはあくまで主観的なもので、客観的なものではないのでSNSとあまり相性が良くない。今でもノームコアファッションの流行は尾を引いているというかもはや定番的なものになっていますが、SNS自体の文化が変わらない限りは数字を根拠としたファッションの流れは変わらないように思います。テックファッションとかも根底には数字的なものがあるように感じます。あと極論的な洋服も最近にかけては沢山見かけました。最高級の〜とか、絶対〜とか、デットストックで〜とか。周りに説明しやすい系の洋服。ただ今後の5年間を考えてみると、SNSの文化醸成が進むにつれて、数字的なファッションはかつてほどの勢いでは無くなるのではないかとも考えられます。もうそういうのいいよって思うようになる人が多いんじゃないだろうか。そんな客観的なことよりお前はどう思っているのか聞かせてくれよって思うようになるんじゃないかと思います。客観的な事実より主観的な感想を述べていこうぜ!的な流れ。もちろんこれは希望的観測でもあります。僕はこっちの方が好きなので。

以上のことを一言でまとめ上げようとしてみると、局所的、民族的、地域的、主観的、このようなワードが浮かび上がってきます。例えば全国的には全く売れていないブランドや品番がなぜか仙台だけでは受け入れられるようになったり、その逆も起きてくるように思います。民族的な、という部分に関する言及がなかったので補足していくと、意見や主観を表明する時にはある程度の根拠の強度が求められます。コレクションを制作するときに参照するカルチャーや洋服に対して、表面的に拾っている人とそのカルチャーに属している人とでは同じ根拠を用いていても強度には絶対的な差がある。バイクに乗っている人が製作したバイク乗りの洋服と、バイクに乗っていない人が作ったバイク乗りの洋服ではちょっと違うように感じるだろうと思います。これが根拠の強度。ブラックカルチャーを参照して作ったコレクションの製作者が白人だったら、なんか違うな、と思うでしょう。ただ一方で気をつけなくてはならないのが、これはあくまで製作者側に求められることであって消費者に求められることではないです。ファッションはあくまで表面的なもので、僕らが表面上のことを求められることは仕方がないことなので。つまり、コレクションの製作者は根拠の強度を持って作る、消費者はその意図を知った上で自分に似合うなと思うものを選んでいく、こういう態度が求められるのかなと。消費者にも着るための強い根拠を求め始めると、これは閉鎖的になものになってしまうので、つまらんです。もし着る根拠があるとすれば、カッコいいからとか応援したいと思うから、とか自分の主観的な考えに根拠を求めるのがいい態度のように思います。欲張るなら、友達の兄ちゃんが洋服作ってるからそこで買ってんだよね〜とか理由としてとてもクールですね。この場合はその兄ちゃんの顔に泥塗るような行為は絶対に厳禁ですので、買うところから私生活までクールになりましょう。

こんなことを考えていたらもうバイイングのシーズンになりました。僕らが信頼するデザイナー達はどんな世界を描いているのか、みんなで楽しみに待ちましょう〜。


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